黒猫陛下の書斎

「試筆」とは、試し書きのことではない。

5分で読める「古典インクのすすめ」

万年筆愛好家にとっての永遠のテーマは、それぞれにとっての<万年筆×インク×紙>のベストな組み合わせを見つけだすことだが、なかでもインクは入口が広いので、まず一番に手を染めやすい。入口が広いというのは、専門的な知識が必要ない上に、安価で手に入るという意味だ。

その反面、インクに凝り出すときりがない。その証拠に、人はインク収集の世界をインク沼と呼ぶ。改めて説明するまでもないが、沼はそこから抜けられなくなることの比喩である。現状としては、人がインクをあまた購入する口実となっている。実際、インク沼にはまって抜けられなくなったと公言する人は多い。面白いのは、沼にはまることが多くの万年筆愛好家にとって“自慢すべきこと”であり、半ば自虐的に「沼にはまった」などと言って自らのコレクションを他人に見せびらかすケースが後を絶たないことだ。(このように書くとまるで悪口を言っているかのように聞こえるが、そうではない。)実のところ俺は1種類のインクを満足に使い続けているので、沼の怖ろしさとやらをまだ知らない。ともあれ、不可抗力的な表現としての「沼」は、すごく便利な言葉だなあと常々感じている。

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今回は俺が使っているインクについて書きたいと思う。このインクは染料インクの中でもちょっと特殊な群に入る。昔ながらの製法で作られているため、「古典インク」と呼ばれている。古典インクは、今日で最も一般的かつ種類の豊富な染料インクとは成分が異なる。

万年筆インク
  ┣━顔料インク
  ┗━染料インク
      ┣━古典インク
      ┗━古典インク以外

万年筆用インクについて」(*1)によると、万年筆用インクはすべて水性インクであり、その中で染料インクと顔料インクとに分けられるという。古典インクはこのうちの染料インクに分類されるが、古典インク以外の染料インクとは一線を画している。どういう点で普通のインクと違うのかは、これから説明する。

古典インクの特殊性にはメリットもあればデメリットもある。最大のメリットは耐水性だ。つまり、水に強い。濡れてもまったく落ちないというわけではないにせよ、普通の(=古典インク以外の)インクに比べると、その差は歴然としている。

インクの耐水性実験の記録は、ググればいくつか出てくる。「インクの耐水実験(その2)」(*2)で、古典インクの耐水性が実証されている。チャートによれば、最も水に強いインクはラミーのブルーブラック(ボトル)ということになる。ただし、環境や状況によっては実験結果に違いが出ることもあり、一概には言えない。とはいえ、例のチャートで激しく色落ちしているのはことごとく古典インク以外のインクだ。よって、古典インクがその他のインクに対して耐水性で優越するのはほぼ間違いない。宛名書きなど濡れてはならない場面では古典インクを使うのが望ましいだろう。それにしても、古典インクでないはずのパイロットのブルーがなぜあれほど鮮やかな色を留めているのだろう。

古典インクのメリットはそれだけではない。耐水性に次ぐメリットは、耐光性と色の変化だ。耐光性とはすなわち色褪せにくさのことで、耐水性・耐光性を兼ね備えた古典インクはそれゆえに古来、公式文書にも好んで用いられてきた。今でも公式な文書に古典インクを使う人は少なからずいる。色の変化は、古典インクだけに見られる特徴だ。原因はその成分にある。インク研究会(*3)なる組織による以下の説明が最もわかりやすい。

「万年筆用に作られたブルー・ブラックは、第一鉄イオンが酸化して作られている。つまり、無色透明の酸化鉄溶液を万年筆に入れて文字を書くと、書いたときには透明だが、しばらくすると酸化作用によって黒く文字が浮き上がってくるのである。しかし、それでは不便なので青い色を染料として付けたものであるという。」

このように、古典インクは書いてから時間の経過とともに変色するという特殊な性質を持つ。したがってブルーブラックとは本来、ブルーとブラックの中間色ではなかったのだ。一時期大学で万年筆を使って講義録を取っていた俺は、2〜3週間前に書いた文字が明らかに黒っぽく変色しているのを見て「やっぱり古典インクって面白い!」と思ったものだ。

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とりあえず手元の古典インクで書いてみた。すでに見たように、青い色が染料として入っているので、今はその青さだけが目に見えている。これがしばらくすると黒っぽくなってくるのだ。その変化を発見するのがとても楽しい。もちろん、変化後の色の方が深みがあってよろしい。

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書いてすぐには変化しないので、ずっと前(昨年12月)に書いたものを引っ張り出してきた。今度は紙がアピカではなくモレスキンなので、比較するには条件的によくないが、だいたいの色の変化を見ていただければそれでいい。どちらの画像も目で見た感じに近いよう、ホワイトバランスなどを調整している。かなり違いがあるように見えるのは、紙によって字幅が細くなったり太くなったりするのにも原因がある。このときのモレスキンはだいぶ悪質なもので、インクの「裏抜け」こそしなかったものの、一般の紙に書くよりもかなり太い字になってしまった。字幅が太いと、それだけインクの濃淡が出やすい。だからこれだけ濃淡のある字になっている。

では次に、古典インクの欠点を紹介しよう。古典インクの最大のデメリットは、強酸性による万年筆へのダメージだ。先にメリットで見た耐水性は、強酸性とトレードオフの関係になっている。耐水性を追求するなら、この問題は避けて通れない。古典インクの臭いは、血を思わせるものがある。そしてやや酸っぱい。まるでインク自ら「危険な薬品ですよ」と言っているようだ。万年筆のペン先には鉄や金などが使用されているが、鉄の場合には特に注意した方がいい。というのも、強酸性の古典インクによって鉄が腐食してしまう恐れがあるからだ。まさにこの一点があるために、泣く泣く古典インクを諦める人も少なくない。

しかし、万年筆ファンによるブログ「桃栗三年柿八年」(*4)によれば、「必要以上に古典ブルーブラックを恐れることはない」という。同ブロガーがモレスキンファンサイト「モレスキナリー」で安心して古典インクを使うための方法として挙げている(*5)のは、
・2、3日に一度は文字を書いて万年筆のペン先に溜まったインクを動かす
・インクを使い切ったら、補充する前に(乾燥させてしまう前に)洗う
の2点だ。万年筆はボールペンと違って、インクを入れっぱなしで放置するという行為が許されない。その意味ではやや神経質な道具かもしれない。でも、インクを入れたら毎日使う、使わないときはインクを抜く、これさえ徹底していれば、大きなトラブルは免れる。やはり小さなトラブルは付き物だが、仮にペン先が詰まってしまっても、薬局で「アスコルビン酸」(ビタミンC)を買ってきて1%の水溶液を作り、それに浸けておけば元通りになるという。超音波洗浄よりもこの方法の方が効果が高いとの声もある。もし自分の万年筆が詰まってしまったときは、アスコルビン酸を買ってきて試そうと考えている。

強酸性に次ぐデメリットは、色の種類が少ないことだ。古典インクは、その成分上、ブルーブラックしか作れない。普通のインクみたいに、染料を調合して鮮やかな緑や赤などを作り出すことができないのだ。そのため、古典インクを使うならブルーブラックという色を受け入れるしかない。ブルーブラックが嫌いなら、古典インクは向かないかもしれない。

しかしながら、ブルーブラックほど色の定義が曖昧なインクも珍しい。古典インクにも、それ以外のインクにも、ブルーブラックの分類に属するインクは数多くある。面白いのは、メーカーによって、色合いがまるっきり異なることだ。ほとんど水色ではないかと思うほど明るい青のブルーブラックもあれば、黒にほんの少し青を混ぜたくらいのブルーブラックもある。だから一口に「ブルーブラック」と言っても範囲が広すぎてどの色を指すのかわからない。どこのメーカーのブルーブラックなのかを言わなければ、二人の人がまったく別の色を思い浮かべる可能性がある。

ちなみに、現在、古典インクとしてのブルーブラックは4種類ある。ペリカン、プラチナ、ラミー、モンブランの4社が作るそれである。この4社の名前は「ペプシコーラモンブラン」と語呂合わせで覚えるとよい。(ただし、試験には出ない。)俺がラミーのブルーブラックを飽きもせず使い続けているのは、色に深みがあって青すぎないのと、比較的安価に手に入るからだ。また、ボトルの底に吸い取り紙が付いているのもいい。反面、フロー(インクの出方)が「激渋」と言われるほどゆっくりとしている。それだけ粘度が高い。ラミー以外のインクについては、ネットでよく画像を見たりはしているが、実際には使ったことがないので、何とも言えない。とにかく、各社それぞれに色合いやフローの差があるので、納得行くものが見つかるまで試してみるとよい。ちなみに、モンブランだけはブルーブラックではなく、ミッドナイトブルーという名称で販売している。インク選びには「趣味の文具箱」(耷出版社)のvol.25巻頭のインク色分布図が参考になる。

注意すべき点は、カートリッジも古典インクのメーカーと、ボトル(瓶)だけが古典インクのメーカーとがあることだ。

古典インク一覧
ペリカンのブルーブラック(カートリッジ)
ペリカンのブルーブラック(ボトル)
・プラチナのブルーブラック(カートリッジ)
・プラチナのブルーブラック(ボトル)
・ラミーのブルーブラック(ボトル)
モンブランのミッドナイトブルー(ボトル)

(※2015年2月現在、モンブランとラミーは古典ではなくなった)

万年筆のインクが楽しい理由は、一つに瓶の形が様々で美しいからというのもある。まるでお洒落な香水を部屋に飾って楽しむかのような感覚だ。「万年筆 インクボトル」で検索するといろんな形の瓶が見られる。古典インクの中では、モンブランのインク瓶がかなり変わった形をしていて面白い。実はあれはあれで理に適っていて、インクが少量になっても最後まで吸引できる。そのような工夫はペリカンやラミーのボトルにも見られる。

さて、以上のメリットとデメリットを踏まえた上で、まだの人は古典インクに挑戦してほしいと思う。たしかに相応のリスクは存在するが、何と言っても耐水性があるというのは非常に頼もしい。パイロット万年筆から販売されている「色彩雫」シリーズなどのように、カラフルでポップなインクが最近のブームのように思える。「月夜」「冬将軍」「松露」あたりは余裕があったら買いたい。たしかにああいうのも悪くない。ボールペンと同様に、時季や気分によって色を変えて楽しむというのが、今の時代に適合した万年筆インクのあり方なのだろう。でも、古くさい万年筆に古くさいインクを入れて書くことが、なんだか新しいと感じられるいい時代になったと感じる。その意味では、今こそ「古典インクのすすめ」をこのブログからも力強く提唱していきたいのだ。
  
最後に、外出先でのインク切れに怯えながら生活している人に耳寄りな情報を提供したい。それはこの記事の最初の画像にある小容器だ。無印良品の化粧用品などを置いている棚に、「小分けボトル」という商品がある。定価は140円。容器はプラスチック製だが非常に硬く、潰れない。キャップはアルミ製でネジ式。もともと化粧水などを少量持ち歩くための商品と思われるが、「少量の液体を、漏らさずに持ち歩く」という点では、万年筆インクを入れるのにも適している。容量は30ml。一般的なインク瓶なら50ml前後なので、その半分以上は入る。容器の口は思ったより広いので、太めの首軸でも十分入るだろう。これがあれば外出先でインクが切れたとしても安心である。
 
 
 
[1] 万年筆インクについて
http://www.k4.dion.ne.jp/~outdoor/stationery_01/pen_kou/ink_kou_01.html

[2] ほしいも小僧様 part3
http://members2.jcom.home.ne.jp/kiyomi-kiss7/PENIZANAI-3/hosiimo-3.htm

[3] インク研究会
http://members.jcom.home.ne.jp/y-mo/fullhalter/ink19.html

[4] 桃栗三年柿八年
http://fountainpen55.blog9.fc2.com/blog-entry-68.html

[5] モレスキナリー
http://moleskinerie.jp/2012/09/27-4.html



続編
5分で読める古典インクのすすめ(その2)