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黒猫陛下の書斎

「試筆」とは、試し書きのことではない。

憧れだったヘルツの鞄

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大阪の南堀江に、ヘルツという革製品の工房がある。以前、乙くん(id:otuhito)に教えてもらった。本店は東京・渋谷にあり、関西唯一の直営店が南堀江にある。心斎橋やなんばの下品で騒々しい繁華街から少し外れたところにあることもあって、店内にいるのはわざわざこの店舗を目指して来た客がほとんどのように思える。俺はここで鞄を買うことをさりげなく夢見ていた。その夢が、とうとう叶ったのだ。

 

2015年4月某日。俺は南堀江の工房を訪う計画を立てた。実はこれで2回目。1回目はかなり前に、やはり一人で行った。1回目のときは買うならプライベート用のショルダーバッグかリュックだと考えていたが、結局何も買わなかった。牛革があまりにもしっかりしすぎていて、俺が想像していたようなものではなかったからだ。しかし、今回は違う。今回のコンセプトは「スーツに合うビジネスバッグ」である。ビジネス用なので、しっかりしすぎているくらいでちょうど良い。実はこれまで4年使ってきたビジネスバッグは、アマゾンで買った977円の激安物である。その鞄に、何万円もする万年筆を入れて持ち歩いていた。まだどこにも故障はないが、さすがにそろそろ買い替えようと思った。いいおとななのだから。近頃、「一生モノ」に弱い。 

 

その夜、ヘルツのホームページを見てみた。ビジネスモデルだけでも、形・色・大きさ・素材で何パターンもある。まず形で一番良いなぁと思ったのは、がま口のような金属フレームと二本ベルトが印象的な「ビジネスキットバッグ」だった。そのレトロな見た目に惚れた。直営店でしか買えないというのもそそる。というわけで、こいつ狙いで行くことにした。

 

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ところが翌日、南堀江の工房でビジネスキットバッグの実物を見て触った俺は、すでに購買意欲を喪失していた。見た目には申し分ない鞄だったが、一つ、致命的な欠点があることに気づいたのだ。それは開け閉めが大変なこと。革がかなり固いので、ベルトの穴から金具を外すにも一苦労で、結局、鞄の口を開くまで5分はかかった。慣れても、1分はかかりそうだ。しかもベルトを二本とも外さなければ、口は全く開かない。物の出し入れのたびに二本のベルトを外し、さらに金属フレームのロックを外すなどという手間は、俺には耐えられなかった。セキュリティーがしっかりしているのはいいが、それが逆に仇となって俺には使いにくい。金属フレームのロックだけならまだしも、このベルトがあるタイプはあまり実用的でない。となると、買うべきは同じモデルのベルトなしタイプなのだが、そう単純には決まらなかった。工房の隅で、ある鞄が目に留まる。パイロットケースと呼ばれるそれだった。

 

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先ほどのビジネスキットバッグや、前から気になっていたダレスバッグ(ドクターズバッグ)に比べ、丸みのない、精悍な印象の鞄。ブリーフケースを革で作ったという感じに近い。来る前に考えていた鞄とは全然違う見た目だが、これはこれで渋くてかっこいいと思う。見た目は他の鞄に比べてもかなりすっきりしていて、落ち着きがある。ちなみに上の写真はヘルツの公式サイトに載っているものだが、ビジネスキットバッグに比べてだいぶ色が明るく写っている。革の色は同じだ。本物はもっと深い色をしている。

 

重要な点だが、この鞄は自立する。置いたときに支えがないと倒れてしまう鞄ほど、情けないものはない。自立することは必須の条件と言ってもよかった。その点は合格である。留め具は前面に2ヶ所で、ボタンをプッシュするだけでカチャッと外れる。開け閉めがとても簡単にできる点がすばらしい。ボタンは押しこむのではなく、下にずらす感じで押す。するとその上にある留め具がカチャッと外れるのだ。このカチャッという音がなんとも軽やかで、メカニックで、たまらない。

 

 

一方、後面は留め具がない代わりに、薄い紙などを挟んでおけるポケットがある。旅先でパンフレットなどを挟んでおくためだろうか。留め具を外して蓋を開けると、中は直方体の空間になっている。仕切りは片側にだけポケットがある。中で書類を分けるのに使える。内側は、違う色の革が貼り付けてある。サイズはA4よりもずっと大きい。B5なら縦向きで横に2個並べることもできる。けっこう物がたくさん入る。仕切りがない分、しっかり入れたほうが安定していいかもしれない。逆にスカスカだと、中で動いてしまう。総革張りの重厚な見た目の割に重量は意外と小さい。鞄だけの重量なら、13インチのMacBook Pro(2012年モデル)より軽い。実際、手に持ってみると「こんなもんか」という肩透かしがやってくる。持ち手の革が握りやすいのも好ポイントだ。そんなこんなで品定めしているうちに、この鞄が欲しくなってきた。ビジネスキットバッグのことは、いつの間にか頭の中から消えていた。ダレスバッグも、今回は諦めていた。

 

ダレスバッグ

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あとはいま目の前にあるパイロットケースを本当に買うかどうかという決心だけの問題で、しばらく鞄をじーっと見ながら考えていた。値段が値段なので、気まぐれで買うわけにはいかない。今後一生使っていくためには、後悔のない鞄を選ばなくてはならない。するとだいぶしてから、店員さんが話しかけてきてくれた。俺が一人で真剣に悩んでいるので、声をかけるのをだいぶ待ってくれたっぽい。「鞄をお探しですか?」と聞かれた。「開け閉めが簡単で、スーツにばっちり合う鞄を探してるんです」と言うと、じゃあこのパイロットケースはまさにうってつけだと言われた。初めはただの営業トークかと思って話半分で聞いていたところ、実はそうではなかった。というのも、パイロットケースとは読んで字のごとく、航空機の操縦士が使う鞄で、コックピットでマニュアルをすぐさま参照できるように、片手でも簡単に開けられるこのような作りになっているのだとか。そして自立し、丈夫でなくてはならない。なるほど、これは理想的だ。

 

とうとう買う決心をつけ、色の選択で迷った。黒、緑、赤、茶(キャメル)、焦げ茶(チョコ)の5色のうち、茶か焦げ茶にしようと思った。金具の色がアンティークゴールドなので、それとの組み合わせで考えると最も美しいのは焦げ茶だったが、ぱっと見で若さのある茶色を選択した。さんざん鏡の前に立ってみて決めたことなので、後悔はなかった。全くもってかわいい。

 

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ヘルツは基本的に受注生産なので、注文してから完成まで1ヶ月以上かかる。が、店員のお姉さんに「現物を持って帰る」という選択肢もあると教えられ、少し悩んでそうすることにした。ほぼ新品に近い美品であり、刺繍糸の色を変えるなどのカスタムオーダーも考えていなかったことに加えて、今すぐ持って帰れるということが何よりも魅力的だからだ。店を出る時、店員さんが「この鞄を買われる方は珍しい。でも私はとてもセンスがあってすてきだと思います」と言ってくれた。この上ない褒め言葉であった。

 

そして次の日から早速使い始めた。肩紐を着けて行く日と、そうでない日があった。着けたほうが両手が空いて便利なのだが、多少の不便を我慢して紐なしで使うのも非常にスマートに見えて、捨てがたい。紐は簡単に取り外しできるので、丸めて鞄の中に入れておいてもいい。

 

大事にしているつもりだが、細かい傷はすでにいくつも付いた。明るい茶色なので、傷が目立ちやすいのだろうか。しかしあまり神経質になってはいけない。こういうのは傷が付いてなんぼものものだとも思う。持ち物につく傷のことを考えると、いつも思い出す写真がある。

 

 

野生のライオンの顔を写したものなのだが、本文には、こう書いてある。「これが真の王者の顔である。野生の雄ライオンは、めったにこの年齢まで生き延びることができない」と。俺はこの写真を初めて見たとき、衝撃を受けた。そして、いっそう傷を欠陥と思わなくなった。傷は強さの証なのである。

 

しかし、ちょっと良い鞄を持っただけで、こんなに気分が変わるとは思わなかった。良いスーツと靴を買ったら、次は鞄だ。鞄を買うとなんかやる気が出てくる。もっと早くに買っておけばよかった。鞄良いぞ鞄。みんな鞄を買って出かけよう。次はダレスバッグが欲しい。しかし当分先の話になるだろうな。次もヘルツとは限らないけど、その時が楽しみだ。