黒猫陛下の書斎

「試筆」とは、試し書きのことではない。

ミュシャ展鑑賞記

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美術館で作品を見るときの作法は人それぞれで、最初から最後まで舐めるように見ていく人もいれば、ちゃんと見ているのか不思議に思うほど見飛ばしていく人もいる。俺は前者で、美術館に行くときは必ずメモを持って行くことにしている。作品の解説の一部を書き写したり、印象を書き留めたりするのである。ただ作品をぼーっと見るだけのときに比べて、時間はかかるし、疲れ方も半端ではないが、後から振り返ることができるという点で、メモを取るというのはやっぱり大事なことだと思っている。

 

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今回はモレスキンとペグシルを持って行った。万年筆やボールペン、シャープペンシルは使用が禁止されているので使えない。立ったまま書くので、ハードカバーのノートブックが重宝する。

 

家に帰ったら取ったメモをポメラでタイプして、Evernoteに放り込んでおく。すると検索に引っかかるので、その日の日記にもなるし、ノートブックのバックアップにもなるので一石二鳥。

 

で今回は、そのメモをタイプしたついでにブログにアップしてしまう。書き写したものと自分の感想とを色で分けたりしようかと思ったが、やめた。トータルで俺のメモなのだ。

 

 

 

第1章

 

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1860年、ハプスブルク家が支配するオーストリア帝国モラヴィア(今日のチェコ共和国東部)の小さな町で生まれる

領内ではスラヴ民族が独立の機運

チェコ民族復興運動も最盛期

チェコ人としてのアイデンティティーと祖国愛

=生涯変わらぬミュシャの精神的支柱

 

アメリカで肖像画家の仕事

生涯にわたって自画像や豪族の肖像を手がけた

「パレットを持った自画像」

「妹アンナの肖像」

「妹アンジェラの肖像」

人物の顔はどれも寂しげな表情

色彩は暗く、背景が単色の絵も

 

1906年、妻マルシュカと結婚

このときミュシャは46歳

娘ヤロスラヴァが生まれたときは49歳

息子ジリが生まれたときは49歳

子煩悩だったミュシャ

子供たちをモデルとして繰り返し描いた

「ジルの肖像」

「人形を抱くヤロスラヴァ」

透ける血管の色

服のシワ

髪の毛の質感

写真のようなリアルさ

晩年の作品

 

1909年頃に撮られた写真

右から2番めがミュシャ

大柄で勇ましく、ひげもじゃ

服装からは裕福そうに見える

 

86年、ミュンヘンで撮られた写真

スラヴ系画家連盟

「シュクレータ・クラブ」

17世紀ボヘミアの画家カレル・シュクレータの名前を取った

 

ミュシャが写真を撮り始めたのはまさにこのミュンヘン美術学校在籍時

友人や家族のスナップ

「日記をつけるように、毎日撮影した」

写真が作風に与えた影響は少なくなかったのではないか?

毎日撮影できたのはやはり裕福だったからではないのか?

 

ヤン・ヴォホチ

「ヴァル=ド=グラース通り、パリのミュシャのアトリエ」(1903年)

ごちゃごちゃしたアトリエ

散らかっているのに統一感

どこかオリエンタリズムを感じる

 

ダヴィド・ヴィドホフ

「アルフォンス・ミュシャの肖像」(1899年)

鉛筆と紙だけを使って描かれた肖像

 

フランティシェク・クプカ

「パリのベゼーダの任命書」(1898年)

 

「イヴァンチッツェ地方祭」(1912年)

自分が知るミュシャはこれ

印象的な赤(朱色)

人物と花と建物と文字

人物の顔に影やシワはほとんどない

 

第1章ではミュシャの人柄やバックグラウンドを知る。祖国愛を生涯持ち続けたミュシャには強い意志の秘めたるを感じる。

 

 

 

第2章 サラ・ベルナールとの出会い

 

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ミュシャ芸術の精神的な原動力は祖国愛

その才能を最初に世に送り出したのはフランスの大女優サラ・ベルナール

1894年の暮れにベルナール主演の芝居「ジスモンダ」の宣伝ポスターをデザイン

これが出世作となる

普通のイラストレーターが突然売れっ子のポスター作家になった

 

6年間のサラとの契約期間

ミュシャがデザインした一連のポスターは「女神サラ」のアイドルとしてのイメージを創出・定着させた

 

一方、ミュシャがサラから得たものは社会的な後ろ盾ばかりではなく

芸術的着想もだった

サラは自らも優れた彫刻家であり、美術コレクターだった

 

ミュシャ様式の特色となる演劇的な要素

特に限られた空間で象徴的な身振りを通してコンセプトを表現する方法

→ベルナールから着想を得たもの

演劇性 物語性

 

「悪魔とトゥワルドフスキー:『パン・ドゥワルフスキーの物語』の挿絵の習作」(1888年)

白い悪魔

悪魔というよりはゾンビか幽霊

日本的な雰囲気も感じる

 

ミュシャはウィーンで舞台芸術の助手を務めた後、

パトロンの庇護によりミュンヘンとパリで学ぶ

経済的援助の終了後は挿絵を描いて生計を立てた

 

「ジスモンダ」(1894年)

パリで一躍有名になるきっかけとなった作品

ポスター制作経験のないミュシャサラ・ベルナールの芝居のために制作

アテネ公妃ジスモンダが宗教行列に臨む荘重な場面

これ以降、サラはミュシャの力によって自らをブランド化した

高さ2mぐらいの大きな作品

 

字が入っているのは絵ではなくポスターだから

独特の雰囲気はチェコのもの?

イスラム的に見えないこともない

 

「椿姫」(1896年)

星…かと思ったら三角形を2つ重ねたもの←ユダヤ?

ポスターなのに色使いは淡く控えめ

 

「ロレンザッチオ」(1896年)

男性、龍

色使いもはっきりしている

強そうなイメージ

←→椿姫とは逆

 

「メデイア」(1898年)

短剣を持って青ざめる女性

足下には死体

女性の左手に巻きついた蛇←何かを暗示?

 

「ラ・プリュム」誌版アートポスター

よく見る絵

モデルはサラ・ベルナール

 

 サラ・ベルナールとの出会いがいかにミュシャの人生を劇的に変えたか。アール・ヌーヴォー様式の演劇性、物語性というキーワードは、ミュシャの絵を鑑賞する上では欠かせない。

 

 

 

第3章 ミュシャ様式アール・ヌーヴォー

 

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ジークフリード・ビングの画廊

アール・ヌーヴォーの家」がオープン(1895年)

従来のアカデミックな形式にとらわれない新しい芸術

 

共通するのは花や植物などのモチーフや

流麗な曲線の組み合わせを特徴とする有機的な装飾様式

 

世紀末のヨーロッパに広がり、国際的な美術運動に

 

この運動と並行して、ポスターという新しいジャンルで頭角を現したのがミュシャ

光背を思わせる円やアーチを背にした優美な女性のイメージに、

エキゾティックな花やモザイク風の装飾モチーフをあしらった印象に残るデザインは

ミュシャ様式」というニックネームでパリの大衆に受け入れられた

やがて「アール・ヌーヴォー」と同義語に

 

「カサン・フイス印刷所」(1896年)

女性のヌード

 

「サロン・デ・サン 第20回展」(1896年)

ヌード

 

「ジョブ」(1896年)

JOBという名前の煙草のポスター

さまざまな商業ポスターを手がけた

 

「ショコラ・イデアル」(1897年)

チョコレートのポスター?

左下にワイプのような枠があってそこにチョコレートのパッケージの絵

商業的な機能を盛り込んだ芸術

 

「ネスレ社の奉祝ポスター」(1897年)

特大

 

「ネスレ乳児食」(1897年)

NESTLE'S FOOD FOR INFANTS"

 

ルフェーヴル・エティル社

フランス有数のビスケットメーカー

ミュシャは同社の公式画家

ポスターやカレンダーのほか、商品のラベルやパッケージのデザインも手がけた

 

「ムーズ川のビール」(1897年)

大きい

派手すぎる髪飾り

 

モエ・エ・シャンドン」(1899年)

シャンペンのポスター

 

香水やお菓子

実にいろいろな製品のパッケージをデザイン

作風が同じで消費者は飽きなかったのか?

 

「12ヶ月の絵葉書」(1899年)

「パーフェクタ自転車」(1902年)

「ウェイヴァリー自転車」(1898年)

2つとも、自転車のハンドルぐらいしか描かれていない

主体(主役)はあくまで女性

 

 幅広いジャンルのデザインを手がけて、成功したミュシャ。絵を見比べ、ポスターにおける文字の果たす大きさを思う。

 

 

 

第4章 美の探求

 

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ヨーロッパの美術史から俯瞰するとミュシャが活躍した時期は

スタイルが目まぐるしく変化する「イズム」の時代

 

「芸術のための芸術」ではなく普遍的な美

「美」とは「善」

内面的世界(精神)と外面的世界の調和

 

ミュシャにとっての芸術家の使命

その「美」で大衆を啓蒙し、インスピレーションを与えることで

彼らの生活の質を向上させること

 

その理想を実現する手段の一つが

観賞用のポスターとしてデザインされた装飾パネル画

この時代、一点ものの高価な美術品は貴族や富裕階級のものだったが、

大量生産されたミュシャのパネル画は廉価で一般家庭の今にも「美」をもたらせた

 

「パリスの審判」(1895年)

「四季」(1896年)

「四季:春」(1900年)

「四季:夏」(1900年)

「四季:秋」(1900年)

「四季:冬」(1900年)

 

文字は商業ポスター以外には書かれていない

 

「サロン・デ・サン ミュシャ展」

ポスターなのでまた文字

 

作品数が多くて見るのがしんどい

 

モデルのほとんどは女性

 

「ひな菊を持つ女性」(1900年)

和風

 

「裸婦」(1903年)

「薔薇色の布をまとった裸婦」(1903年)

「花に囲まれた女性」(1916年)

ひときわ明るい色彩

 

ミュシャが志向した普遍的な美。内面的世界(精神)と外面的世界の調和というテーマは、哲学の世界と密接に繋がっていると容易に想像できる。

 

 

 

メモはここまで。なかなか見応えのある美術展だった。もちろん典型的なアール・ヌーヴォー様式の絵もすばらしかったが、正直、どれも同じような感じなのでちょっと飽きるなーという感じだった。これまでに見てきた画家によるサロン(官展)のための絵と、ミュシャの大衆向けのデザインは、コンセプトが異なるために当然画法や題材が異なっていて、新鮮だった。個人的にはアール・ヌーヴォー以外の絵(妹や弟の肖像画など)のほうが良かった。展示終了間近ということもあり、会場は思ったよりも人が多かったが、フェルメールのように小さな絵ばかりではなかったので、ある程度好きに見れた。

 

次はターナー展。ターナーの海と船の絵が好きで、絶対に見たい1枚がある。いきなり2014年で最も思い出深い美術展になるのではないかと期待している。

 

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アルフォンス・ミュシャ Wikipedia