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黒猫陛下の書斎

「試筆」とは、試し書きのことではない。

なぜ手書きなのか?


文明が振り切れなかった手書き文字

文字の歴史は意外に古く、アンドルー・ロビンソンの『文字の起源と歴史』(*1)によると、この世に文字の原型が誕生したのは氷河時代、つまり最も古くて紀元前2万5000年も前のこと。「始原文字」を用いて、人々は絵文字的コミュニケーションを図ったとされる。驚くべきことに、2万5000年前にはすでに文字らしきものがあったのだ。

一説に世界最古の文字とされるシュメール文字が誕生したのは、紀元前3300年のこと。イラクのウルクで、シュメール人が粘土板に記号を刻み始めたのである。その200年後にはメソポタミア楔形文字が使われ始める。それと同時か、やや遅れてエジプトのヒエログリフが登場し、紀元前1700〜1600年にはパレスチナで最古のアルファベットが誕生。そして紀元前1200年、卜骨の甲骨文字から漢字ができ始めた。数千年の時を経て、人間は今でも文字を使い続けている。人類の歴史はまさに文字の歴史であるといっても過言ではない。

とはいえ、かように長い文字の歴史のほとんどが、専ら手書きの文字の歴史である……とはいえない。800年よりも前に、中国で印刷技術が発明されて以降、人々は常に手書き文字と非手書き文字との共生の道を歩んできた。同じ形の文字をいくつも複製できる印刷文字や電子文字と、一つとして同じものはない手書き文字。そのどちらも、切り捨てることができずにここまできた。なぜだろう。
 
 
  

なぜ手書きなのか?に対する答

文明とは技術の進歩であり、技術の進歩とは時短(=効率化)である。利便性を求めて、人は事物の効率化を繰り返す。我々の身の回りに、果たして効率化されていないものがあるだろうか。PC、爪切り、ハンガー、辞書……すべては効率化の賜物である。ところが、手書き文字だけは、明らかにその流れに背く。ふつうに考えれば、手書き文字は、活字、ひいては電子文字に取って代わられるべきである。

それなのに、手書き文字は一向に姿を消さない。それどころか、日本国内では、近年になってますます注目される向きさえある。2013年6月7日の日経新聞には、「美文字ブーム」の隆盛を伝える記事が掲載された(*2)。要は、ペン字の練習帳とそのための筆ペンが前年に比べてよく売れているという。中塚翠涛『30日できれいな字が書ける大人のペン字練習帳』(宝島社/2010年)(*3)は今年に入り人気が急上昇、今年5月の販売部数は前年比10倍という。奈良県にある文具メーカー・呉竹から販売される「水を使って何度も書ける美文字練習セット」(*4)は計画比3倍の出荷数、さらには渋谷ロフトでも3〜5月の筆ペンの売上高が前年比2割増と、明らかに手書き文字が注目されていることが窺える。

ある見方によれば、手書き文字ブームはデジタルからアナログ、効率から非効率、文明から不文明への逆戻りである。これだけPCやタブレット、スマートフォンといったデジタル機器が普及していても、原稿用紙とペンはまだなくならない。資本主義社会において、存在は需要の証明である。文具売場に目を向ければ、近年の文具ブームを受けて国内メーカーがいかに激しく開発競争を繰り広げているかが見てとれよう。ボールペンだけを取り上げるにしても、各メーカーから油性、水性(顔料、染料)それぞれにつき多種類の製品が販売されており、全メーカーの全製品を合わせると膨大な数になる。これだけたくさんの種類があると困るのは消費者で、どの製品もあまり大きな差はないように思える中、1本を選んで買う「理由」を探し出さなくてはならない。悪くいえば市場が飽和状態にあり、逆にいえば細かなニーズに応える製品が求められる高度な文具社会に成熟しているのだろう。いずれにせよ、これだけの供給があるということは、それに見合った需要があると考えるのが当然だ。国内ばかりではなく、海外のハイテク国でもやっぱり同じことだと思う。フランスではパイロットの消せるボールペンが数年前に大ヒットしたというし、手書きの文通が原則のポスクロは今なお全世界で流行している。程度の差こそあれ、手書き文字による「文明の逆戻り」現象は共通である。

デジタルの強みを知っている人ですら、しばしば手間と時間のかかる手書きを選ぶ。なぜそんなことをするのだろう。手間と時間をかけてまで、手書きを選ぶメリットが何かあるというのか? デジタルになく、アナログにないもの……。結局、非効率な手書き文字には、文明が振り切れなかった特別な力があるとしか考えられない。だとすれば、特別な力とは具体的にどういう力なのだろうか。考えは堂々巡りした。たった1つの謎が解けない。いったいなぜ、手書き文字は効率を求められないのか。

そこで、この世で効率を求められない例外が存在することを思い出した。その例外とは、思いつくかぎり、宗教、芸術、贈与の3つである。まず、文明が自然科学による時短技術の進歩であるならば、非科学的で形式を重んじる宗教は非効率であるし、形式美そのものとしての芸術については言及すること自体が非効率である。贈与も、効率を求めれば物ではなく現金のやりとりで済むし、もっと効率化すれば為替が始まるだろう。でも完全にそうならないということは、一般に手間暇をかけるほど喜ばれるということになる。結論から言うと、手書き文字が効率を求められないのは、それが芸術と贈与の2つの例外に属するからだと考えている。

なぜ手書きか? この問に対する答は、まず「芸術だから」である。「私の字は汚くて芸術ではない」などという反論なら意味をなさない。形式美である以上、どんな字も芸術に他ならず、筆致の巧拙は、共鳴者の多寡の問題にすぎない。要するに、非効率が手書き文字という芸術の必要条件なのである。だからこそ、手書き文字は効率化の波に飲まれずに済んだのだ。

昔から、思いつくままに字を書いて遊ぶ癖がある。大袈裟だが、考えてみれば、これは芸術活動の一種だったのだ。芸術なら、目的がいらない。実際、何のために書いているのかわからなかった。でも楽しかった。ただ意味もなく字を書いているだけで楽しかった。形式美としての芸術。これが1つの答である。

手書きの何がいいのか。全く同じ形の字が二度と書けないという一回性か。それとも、必ずしも狙った通りの字が書けるとは限らない偶然性か。あるいは、手蹟がその人の存在証明となる唯一性か。いずれにせよ、手書き文字には印刷文字や電子文字にはない精神性がある。物質的なものを超えた、何か。たぶん、それは芸術性だと思う。

なぜ手書きか? この問に対するもう1つの答は、「贈与だから」である。たとえば手紙を書くとき、その文字には、自分以外の受贈者(読み手)が存在する。読み手に良い印象を与えるために、手書きを選択するのである。

タイプしてメールで送れば済む案件を、わざわざ手書きして郵送するのが手紙だが、もし手紙の慣習を完全になくし、全部メールでやりとりするようにしたら、きっと大幅な時間と手間とお金の節約が実現できることだろう。理想のようにも思えるこのアイディアがなかなか実現しない背景には、多くの人が印刷文字や電子文字に対して「味気なさ」を感じている事情がある。だからこそ、苦し紛れに顔文字や絵文字を使って味気なさを補うのだ。

また、日本で履歴書がいつまでも手書きなのは、応募書類の送付が一種の贈与と考えられているからではないかと思う。贈与は、手間がかかる分、気持ちが伝わる。その「気持ち」とは感情であり、非効率であり、文明の対極にあるものだ。手書き文字を贈与と結びつけて考えることで、昔から疑問に思っていたことがうまく説明できるような気がする。

ただ、ひとりでノートに字を書いているときなどはどうだろうか。自分だけが読むつもりで書いた字が、贈与と言えるのだろうか。これについては、「可能な読み手」が意識されているのではないかと考える。つまり、書く時点で具体的な受贈者(読み手)は想定されていないが、将来、誰かに見せる可能性はあるという場合である。好きなことを書いてノートブックをきれいに作り上げる趣味の人も、潜在的な受贈者を意識しながら創作活動を行っているに違いない。他にも、自らその写真をツイッターに投稿し、受贈者を作り出すのを目撃したことがある。このように、受贈者が不特定の場合にも、贈与としての手書き文字は成り立つのである。

まとめると、こうだ。長い文字の歴史を通じて、非効率な手書き文字は完全に駆逐されることがなかった。むしろ近年では手書き文字の見直しという「文明の逆戻り」現象が起きている。これは、手書き文字が芸術的であり、かつ贈与物となる可能性を秘めていることを人々が再認識したことに起因すると考えられる。

なぜ手書きなのか? それが気になる人はごく少数だろう。しかし哲学は言語に関する思想が多く、ウィトゲンシュタインは<私>の言語こそが<私>の世界の限界であると言った。また、「ことば(Wort)の欠けるところ、ものあるべきもなし」とは、ドイツの詩人シュテファン・ゲオルゲの言葉である。言語がこの世界の構成要素ならば、その象徴たる文字は、書き手の世界をそっくり写し出す鏡のようなものではないかと思う。奇しくも、手書き文字についての思想を持つ哲学者にはまだ出会ったことがない。どこかでお目にかかりたいものである。

最後に、道具を使うことの楽しさを忘れてはならない。道具は目的を成し遂げるための手段だが、手段は往々にして目的と逆転する。つまり、字を書くために(=目的)ペンを使う(=手段)という関係が逆転し、ペンを使うために(=目的)字を書く(=手段)ことになるのだ。道具は何も筆記具とは限らず、キーボードでもiPhoneでもいいのだが、よりによって筆記具の場合には、なぜ手書きかという問に対する3つめの答になるだろう。とりわけ、万年筆の場合にはこの逆転現象が顕著である。そのことは読者の想像を難くするものではないだろう。

文字を書いていると心が落ち着く。それは芸術活動に没頭しているからである。文字を書いていると誰かに会いたくなる。それは文字の受贈者を意識しているからである。文字を書いていると「あっ、そういえば最近使ってなかったペンがある。インクを入れっぱなしの状態はよくないからな。でもどれとどれを使ってなかったのか、わからないや」となる。それは万年筆を買いすぎだからである。
 
 
[1] アンドルー・ロビンソン著・片山陽子訳『図説 文字の起源と歴史―ヒエログリフ、アルファベット、漢字』(創元社/2006年)
http://goo.gl/XIXWmi

[2] 日経新聞 趣味「ペン習字、始めやすく」=練習帳・筆ペン販売拡大=(ブログ「息子たちに読んで欲しい日経記事」より)
http://blog.goo.ne.jp/pineapplehank/e/f6735d6e0bf9f75d4dc5ecdc9a69eba7(キャッシュはこちら

[3] 中塚翠涛『30日できれいな字が書ける大人のペン字練習帳』(宝島社/2010年)
http://goo.gl/3aed1r

[4] 「水を使って何度も書ける美文字練習セット」
http://www.craftduo.co.jp/KWSC/GoodsInfo.aspx?ShoCd=0697100007