黒猫陛下の書斎

「試筆」とは、試し書きのことではない。

買ったばかりのセンチュリー#3776をペンクリニックで調整してもらった話

センチュリー#3776といえば、言わずと知れたプラチナ万年筆のフラッグシップモデルである。団塊の世代に多い古参ユーザーに圧倒的な支持を得るこのモデルが、最近、若い人々の間でもにわかに注目を集めているらしい。
 
 
 

「日本最高峰」の万年筆

#3776という数字は、もちろん日本最高峰の富士山の標高にちなんで付けられた。開発者の名前は梅田晴夫。作家であり、万年筆の収集家でもあった故人が「理想の万年筆」を目指して作ったのがこの#3776だ。

両端が丸みを帯びたいわゆる「バランス型」。黒と金の王道的カラーなら、モンブランのマイスターシュテックを彷彿とさせる。天冠のロゴすらもない地味なデザインだが、キャップを外したときのギャップがすごい。

2万円台の万年筆にも引けを取らない大型のペン先には、文字通りの形をした「ハート穴」と、「3776」「p」「14K」の刻印がある。このペン先こそプラチナの魂である。舶来でこのレベルのペン先を探すとすると、1万円では絶対に手に入らないだろう。お得がすぎる。

茶屋町ナガサワ文具センターで#3776を購入したのはつい先日のこと。富士山が世界文化遺産に登録されたのを記念して、というのは後付けた理由で、実はデート中に何気なく立ち寄ったら欲しくてたまらなくなってしまったのだった。

メーカー公式サイトによれば、#3776のペン先には「超極細」「極細」「細字」「細軟」「中字」「太字」「極太」の7種類がある。が、店頭には細字がなかった。人気が高く、売り切れてしまったとのこと。さらには生産が追いつかないため、いつ入荷するかは不明という。

そこで試し書きをさせてもらったのは超極細、極細、細軟の3種類。その中では、細軟のペン先の感触がよかった。細軟以外はかなりカリカリしていて、特に超極細は紙との摩擦が大きかった。摩擦が大きければそれだけ、書き味の滑らかさは失われる。それで細軟を選んだ。

字幅は3本とも同じだった。超極細や極細は、正直いって細軟とほとんど変わらなかった。どれも手持ちのプロギアに比べるとやや太く感じたが、それでも手帳やノートへの筆記には適正な字幅である。改めて、万年筆は個体差の激しい製品だと思う。状態のよい細軟のペン先に当たったと思った。金銭的に無理して買ったけど、後悔はない。
 
 
 

試し書きをしてもトラブることがある

ところが、さっそくラミーのブルーブラックを吸入して遊び始めたとき、言葉が出てこなかった。試し書きのときの滑らかさは何だったのかと疑うほど、書き味が悪い。とにかくインクの出の悪さが気になる。

もともとパイロットなどに比べてインクフローが渋めといわれる(*1)プラチナの万年筆に、これまた激渋といわれるラミーのボトルブルーブラックを入れたのがいけなかったのか。そうだとすると、「渋い万年筆×渋いインク」でインクフローが悪くなっているのだろうと思った。幸い、数日後に地元でペンクリニックが開催される。そこで一度見てもらうことにした。

7月6日午前。大阪の高島屋にてダイヤモンド開催のペンクリニックに足を運んだ。ペンドクターは仲谷先生(*2)。実際にお会いするのは初めてで、少し緊張した。でも万年筆が元の書き味を取り戻すことを想像するだけでわくわくした。心待ちにしていた当日までの数日間はとてつもなく長かった。

開始時刻ちょうど、文具売場に仮設されたペンクリニックの会場に、まだ人は集まっていなかった。係の人に名前を呼ばれ、緊張しながら先生の前に座った。「フローが渋いので改善してください」とお願いしたら、先生はすぐペン先を小型ルーペで観察し始めた。写真を撮らせてもらえばよかったが、使い古された先生のルーペは味が出ていた。指の当たる部分はメッキが剥がれて、金属が剥き出しになっている。こういう職人の道具にはちょっと憧れるのだ。ルーペには、国宝・阿修羅像の写真のキーホルダーがついていた。

診断には1分もかからなかった。「これは書けないでしょうね」先生は当たり前のようにそう言った。「えっ」俺はどういうことかわからなかった。「だってペン先がずれとるもん」「えっ、ずれてるんですか」予想外の診断結果に、ただ先生の言葉をオウムのように繰り返すしかなかった。ペン先が、ずれている。いわゆる「グイチ」の状態。まだ買ったばかりの万年筆。試し書きをしたときは、何の異常もなかった(ように見えた)。まさにこういう初期不良を避けるために、わざわざ店頭で試し書きをしてから万年筆を買っている。なのに、どうして。

突然、先生は問いただすように聞いてきた。「まさか、自分でいじったりはしてない?」俺はすぐに否定したが、わずかながらに恐怖を感じた。もしこれが自分でいじった結果なら何を言われるかわからないと思ったからだ。

続けざまに、購入時期や購入場所なども聞かれた。購入場所について「梅田のナガサワです」と答えたら、「茶屋町の?」と聞かれた。「あ、そうです」と答えると、「うーん……」と妙に納得できない様子だった。ナガサワに何かあるのだろうかと思ったら、「あそこはうちの師匠が見てる(点検している)はずなんだけどなー」と、先生の声に戸惑いの色が混じった。

この時、「まさか、自分でいじったりはしてないよね?」と聞かれたのはそのためか、と理解できた。自分の師匠なら、こんな状態の万年筆を売場に出すはずがない。だとすると、素人が変にいじったのかもしれない。先生の心の声は、はっきりと聞こえた。俺にそんな質問をしてきたのは、師への信頼感ゆえだったのだなあと思うと、自然と怒りなども湧いてこなかった。

そんなことを考えている間も、先生の手元はせわしく動き続けた。ルーペでペン先を見た後、ペン先をちょっといじる。ちょっといじったら、またすぐにルーペを拾ってペン先を見る。2〜3秒の間隔でそれが何度も続いた。ここまでが調整の第1段階である。

第2段階では、スリット(割れ目)に薄い金属板を差し込んで、何やらぐいぐいとやり始めた。スリットの間隔でも調整しているのだろうか。そういえばセーラーの長原先生も同じことをしていた。そんなことをしたらペン先が壊れるのではないかと素人目には思えるのだが、壊れない。

第3段階では、微調整に入った。ペン先にやすりをかけて、書き味を滑らかにする。先生は「市」という字を何度も書いた。書いては磨くを繰り返しながら、いろんなことを聞いてきた。なぜこのインクを使うのか。万年筆は何本持っているのか。その中で一番高価な万年筆は何か。一番多く持っているメーカーは何か。初めて買った万年筆は何か。なぜ#3776を買ったのか。

そんな中、先生が暗に「沼」の存在を語ったのが面白かった。「万年筆の所有数が10本になると、20本になるのはすぐだし、20本以上になると感覚が麻痺してくる。さらに増えると、理由をつけて自己弁護を始める。だから気をつけなさい」……どうやら万年筆に魅せられた人たちの間では、「抑えがたき物欲」が鉄板のアイスブレイクとなっているらしい。

ふとパイロットのエラボーの話になった。すると自然、ナミキファルコンを使った例のカリグラフィー動画のことも話題に上る。専門家の意見を聞く好機だと思い、率直にあれはどうなんですかと聞くと、「パイロットの人が、『あんなペン先は存在しない』って言ってる」という答が返ってきた。

例の動画

存在しないペン先。それはどういうことなのか。存在しないといっても、動画ではたしかに見たわけだし、見たものを信じないというわけにはいかない。まさかあの動画が巧妙に作られたフェイク、あるいはあの動画に写っているものが幻影とでもいうのか。

そこで、「あのペン先は特注だからこそあんなことができるわけで、店頭で売っているエラボーで同じことをやろうとしても無理なんですよね」と質問を変えて投げかけてみた。それでも煮え切らなかった。「普通はね、あんなに柔らかいペン先であれほどの力を入れて書くと、必ずペン先がどっちかにずれるんですよ……」とのこと。つまり、専門家で以てしても理解の範疇を超えた謎のペン先ということなのか。

ともあれ、あの動画がどちらかというと万年筆を全然知らない人たちの間で広がって、万年筆はああいうことができるんだという誤解を与えた観は否めない、とは先生も認めた。実際、あの動画を見て勘違いした万年筆初心者がペンクリニックにエラボーを持参し、同じように調整してくださいと難題を突きつけてドクターを困らせる事案が少なくないのだという。あの動画はたしかに新しい万年筆ファンを生み出した点において非常に価値あるものだったが、その反面、万年筆の本来的な使い方をきちんと伝えられなかった点において罪も深いといえる。

ではあの動画のようなカリグラフィーができる、柔らかくてよくしなるペン先は他にないのかと聞いてみた。すると、「たとえば○○(忘れた)や○○(忘れた)を使えばできないこともないが、あれを万年筆でやる意味がよくわからない。あれならカリグラフィーペンでやればいい」と言っていた。たしかにそうだ。

そんなことを話している間に、#3776の調整が終わった。先生に手渡された万年筆を持って、書き味を確かめる。テーブルの上に試し書きの紙が用意されていたが、それは置いといて、いつも使っている自分のメモ帳に書いた。書いた瞬間、違いがわかった。インクフローは明らかによくなり、かすれや引っかかりがまるでない。

すっかり感動してしまって何を言っていいのかわからなくなり、「出ますね」と押し出したように言うと、先生に「当たり前でしょう。新品なんだから。それで出なかったら、交換してもらわなきゃ」と言われた。その通りである。

ところで、肝心のペン先のずれの理由については、「ペン先戻り」ではないかと言われた。ペン先戻りとは、ペン先が調整前の不良な状態に戻ってしまうことだそうだ。出荷時のメーカーによる調整、さらにナガサワでの調整を経て、なおペン先が戻ってしまった、というのが先生の見解である。ときどきそういうことがあるのだそうだ。一つ勉強になった。

ついでにいえば、店頭で試し書きをしたとしても、その場でペン先の状態を的確に診断するのはかなり難しいということがわかった。つけペンの要領でなら、ペン先がずれていても普通に書けてしまうので、見分けがつかない。店頭に立つプロでさえ見抜けなかったことを、素人がどうして発見し得えただろう。今回の場合、もしペンクリニックで調整してもらえなかったとしたら、購入店舗で別のペン先と交換ということになった可能性もある。その場合、唯一無二のペン先を泣く泣く手放さなければならなかった。なのでペンクリニックには救われた思いがする。
 
 
 

常用万年筆はすべて調整完了

最後に「楽しんで使ってください」という声をかけていただき、人生3度目のペンクリニックが終了。帰宅後はもちろん、存分に字を書いて遊んだ。やっぱりペンクリニックで調整してもらった万年筆というのは、近くに置いているだけで無性に字を書きたくなる。

改めて、大型のペン先は見ていて惚れ惚れする。#3776もプロギアも同じくらい大きなペン先がついている。#3776は14金で、プロギアは21金。比べると、さすがに違いを感じる。というより、「正反対のペン先」(仲谷先生談)なので、当たり前の話なのかもしれない。はっきり言うと、俺にはセーラーのニブが合っているのか、プロギアが一番書きやすいと思う。それでも#3776を買ったことは後悔していない。ほんの少しカリカリした感じの残る独特の書き味と、「ザ・万年筆」というオーソドックスな外観は、どんどん愛着が高まってきた。一生使うぐらいの気負い。

今はナガサワオリジナルのペンケースに、スーベレーンM400、プロギア、そして#3776の3本を入れて持ち歩いている。これまではスーベレーンM400とプロギアのほか携帯用のはさみを入れていたが、はさみは#3776と交代し、ようやく万年筆を3本差すようになった。

これ以上万年筆が増えると、ペンケースを買い直すか、2個持ち歩かなければならなくなるので、未来の物欲には勘弁いただきたい。お金もないし、いい加減万年筆貧乏を卒業してもいいのではないだろうか。
 
 
 
[1] 「細字万年筆にこだわる」
国産万年筆 / 三社の細字の特徴と違い
http://visconti.air-nifty.com/blog/2008/08/post_0e85.html

[2] ダイヤモンドの公式サイトによれば、仲谷先生のクリニックは13年7〜8月中にあと5回開催される。会場はすべて大阪。

2013年7月6日(土)
郄島屋大阪店 地階文房具売場
11:00〜18:00


2013年7月11日(木)
ペレペンナ Hoop 4階
14:00〜20:00

2013年7月19日(金)
阪神百貨店 梅田本
13:00〜18:00

2013年8月3日(土)
郄島屋大阪店 地階文房具売場
11:00〜18:00

2013年8月8日(木)
ペレペンナ Hoop 4階
14:00〜20:00

2013年8月16日(金)
阪神百貨店 梅田本
13:00〜18:00

http://diamond.gr.jp/2013/06/penclinic/

仲谷先生のクリニック風景