黒猫陛下の書斎

「試筆」とは、試し書きのことではない。

パイロットのペンクリニック

3月2日にパイロット開催のペンクリニックに行ってきたので、そのことについて書きたい。
 
 
 

万年筆を「この子」と呼ぶ

万年筆を使い始めて2年にも満たないのに、ペンクリニックを受診するのはもうこれで2回目になる。1回目は昨年の5月27日に開催されたセーラーのペンクリニック。もうすぐで1年が経とうとしているというのに、まだ記憶に新しい。運よく勇退前の長原(父)先生と話をすることができた。調整は長原(子)先生にしていただいた。あのころはまだスーベレーンを所有しておらず、調整を依頼したのはラミーサファリである。「よろしくお願いします」と言って席に着いた俺に、長原(子)先生が言った言葉が未だに忘れられない。

「はい、この子はどうしましたか?」

……この子、と言ったのだ。万年筆に擬人法を持ち出すほど、愛着を持って接しておられるということが、この一言ではっきりとわかった。まるでペットやわが子に対する接し方である。物に擬人法を使うのはあまり好きではないのに、長原先生の擬人法だけは、特に違和感もなくスッと胸に入ってきた。ペンクリニックとはそういう特殊な雰囲気・空気を持つものなのかもしれない。
 
 
 

ペンクリニックのルール

ペンクリニックのいいところは、メーカーを問わず無料で修理・調整してくれるところだ。つまり、パイロットが開催するからといって、パイロットの万年筆しか診てくれないということではない。また、他社製品の修理をお願いしたからといって嫌な顔をされることもない。クリニックはもともと万年筆ユーザーの数を増やすため、善意で始められた。実際は古参ユーザーが多いような気もするが、俺のような新参者もいないわけではない。お金を取らない分仕事が雑になるということは決してなく、どのドクターも真剣な表情で修理に取り組んでおられる。ちなみに、ペンクリニックにモンブランだけは持ち込まないのが暗黙の了解となっている。というのも、後でやたらと揉めることが多いらしいのだ。診てもらえる本数は、各開催ごとに異なる。概ね1人1本か2本だ。
 
 
 

ドクターの「お家芸」

俺にとって2回目のペンクリニックは、パイロットが開催するものだった。実は2回目もセーラーのクリニックに参加しようと計画していたのだが、パイロットがずっと早く大阪に来るという情報がツイッターで手に入ったので、気が変わった。少しでも早くスーベレーンM400の書き味を取り戻したいと思っていたからだ。

先日、茶屋町のナガサワ文具店でプロギアを購入した際、懇意の谷内さんに言われたことがきっかけで、どう調整してもらうかが決まった。「別に細くしなくてもいいから、滑らかに書けるようにしてもらうといいですよ。今度お見えになるパイロットの先生は、そういうのがすごく得意なんです。私のM400もその方に調整してもらったんですが、驚くほど滑らかでしょう?」たしかに、谷内さんの茶縞M400は腰が砕けるほどすらすら書けた。スーベレーンの実力はこんなにあるのかと思った。このことからわかるように、ドクターにはそれぞれの「お家芸」がある。万年筆をどう調整してもらいたいかによって、ドクターを選ぶといいだろう。
 
 
 

緊張のクリニック当日

3月2日。朝が弱い俺が珍しく早起きしたのは、前日の夜からペンクリニックに備えて早く布団に入ったからだった。10時には店頭で予約を入れないと、かなり待つことになると予測していたのだ。前回同様、恋人を連れて行った。ただし今回は前回と異なり、それぞれの万年筆を調整してもらうことになった。

予定通り10時過ぎにナガサワに着いた時、すでにクリニックは始まっていた。男性が2人、席についていたと思う。まだ列はできていなかった。驚いたことに、受付で用紙をもらったところ、続き番号で3番だった。用紙を記入し終えて、店内で順番待ちをし始めて1分も経たないうちに、名前が呼ばれた。俺は広沢先生の前に座った。

「よろしくお願いします」と挨拶してから、おもむろにスーベレーンを取り出して、「特に問題はないのですが、もっと滑らかに書けるようにしたい」旨を申し出た。「はい、わかりました」と広沢先生は笑顔で答えた。

スーベレーンを手渡すと、広沢先生はいきなり変な行動を取り始めた。ペン先を天井に向けて、尻軸を机の上で何度もトントンと叩いては、紙の上に小さな点を横並びに3つ書くのだ。そして吸収力の高い細長い紙をペン先に当てて、インクを吸い取る。それからまたトントンと叩き、点を3つ書く。紙を当ててインクを吸い取る。その繰り返しだった。1分ぐらいのことかもしれないが、無言のままそれをじっと見つめていたので、時間の流れはひどくゆっくりとしていた。重苦しくさえもあった。このまま何も話さないままで終わるのかなと思っていたら、広沢先生がやっと口を開いた。

「今ね、何をやっていたかというと」と先生は切り出した。どういう処置を施したのか(あるいは今から施すのか)、きちんと説明してくれる。万年筆のクリニックにも、インフォームド・コンセントの理念があるのだろうか。専門家の講釈は少しも聞き逃したくない。「たとえばペン先をインクの中に浸けた後なんかだと、ペン先にたっぷりとインクがある状態なんですよね。その状態だと、滑らかに書けて当たり前です。今私は、あえてペン先にインクを残さないようにして、それでもきちんと書けるかどうかテストしていました。最初にペン先を見たとき、あれ?と思いましたが、どうやら問題ないようですね。」その言葉を、俺は安堵の表情で以て迎えた。

広沢先生によると、まずインク供給に問題はないという。そこで第2の処置に入った。紙ヤスリにペン先を擦り付ける。その手つきも独特で、力の加減などまさに職人芸といった印章を受けた。紙ヤスリはいろんなペン先を調整したせいか、ほぼ全面がインクで青黒く染まっていた。しばらくゴシゴシやった後、スーベレーンはようやく俺の手元に帰ってきた。「どうですか、さっきとは全然違うと思いますよ。」先生の声には若干ニヤニヤした感じがあった。自信があったのだろう。

ドキドキしながら、生まれ変わったスーベレーンの書き味を試した。すると、たしかに滑らかになっていた。「気になるところがあったら、遠慮なくおっしゃってください。」という先生の言葉を真に受けて、必死で粗探しをしてみたが、いつまで経っても問題は見つからなかった。「うん、大丈夫です。すごく滑らかになりました。」ついに降伏である。

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広沢先生のすごさを思い知ったのはこの後だった。俺が机の上に出していたペンケースの中から先日購入したプロギアを取り出して、俺がスーベレーンの試し書きをしている間に書き味の診断と調整を終わらせていたのだ。「ついでにこちらも直しておきましたから。(左右に弧を描きながら)この万年筆はこっち側は問題ないんですけど、こっち側が引っかかるんでね。」これを聞いたときはすげええええと思った。早い。早すぎる。先生には何度お礼を言ったかわからない。そんなわけで2本の万年筆が生まれ変わり、足を弾ませてナガサワを後にした。2回目のペンクリニックも非常に思い出深いものとなった。

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ペンクリニックは、ただ万年筆の書き味をよくしてもらうだけでなく、万年筆にこれまで以上の愛着を抱くためのイベントであるといえる。調整を受けた万年筆を媒介として、ドクターの顔や手先が蘇ってくる。万年筆がドクターへの架け橋となるのだ。「あの人に調整してもらった万年筆だ」という意識が、これまで以上に愛着を抱かせる。一度調整してもらった人ならわかるだろう。
 
 
 

試し書きの紙は粗悪

そういえば、広沢先生が教えてくれた面白い話がある。ペンクリニックでは、調整後の万年筆を試し書きするための紙が、机の上に用意されている。それを指さして、先生は言った。「これはね、うち(パイロット)で万年筆を作ったときに、1本1本試し書きをしてから出荷するんだけど、そのときに使う紙と同じなんです。この紙は表面がデコボコしていて、かなり引っかかります。質が悪い紙なんです。だから、この紙で問題なく書けたら、藁半紙以外の紙は何でもいけるということなんです。」なるほどそうかと思った。実はいい紙を使っていて、調整後の万年筆の書き味が少しでも滑らかに感じられるように工作しているのではないかと勘ぐったりしていたが、全く逆だった。すごい。さらにその後、先生は便箋を出して、「これに書いてごらんなさい。さっきと全然違うだろうから。」と勧めてきた。書いてみると、明らかに違った。完全に生まれ変わったのだと思った。
 
 
 

誰でも一度はペンクリへ!

ペンクリニックは、初心者にとって少し足を踏み入れにくい場ではある。が、勇気を出して行ってみれば、ドクターは案外(?)親切に診察してくれる。きっと今まで以上に万年筆が好きになるだろう。あれで1円もお金を取らないなんて、本当にどうかしている。

なお、国内でペンクリニックを開催しているのは主にセーラー、パイロット、中屋万年筆など。開催地や開催日などはメーカーによって異なる。セーラーなどは公式サイトでクリニックの予定を公表しているが、パイロットは実施店舗でのみ告知し、公式サイトでは公表しない方針を取っている。そのため、主な文具店のツイッターアカウントをフォローしておくなどの対策が必要になる。

ペンクリニックで検索すると数多くの体験談を覗くことができるが、中でも臨場感たっぷりに伝えているこちらの記事は、初めてクリニックに参加する前に何度も読んで参考にした。

http://fountain319.tm.land.to/fountain-pen/lounge/fountain-pen_clinic.htm

この記事の著者の試し書きの際の大きな感動は、誇張ではない。生まれ変わった万年筆で字を書いたときは、本当に背筋がぞくぞくする。